南部博士は先ほど別荘に届いた書籍小包を自室でほどいて愕然としていた。
欲しかった学術書は注文通りであったが、その中に一冊だけ『小学生のための日本のことわざ・慣用句』というものが入っていたからだ
博士はそれを左手に取ると右手の人差し指を曲げ第二関節を顎に押し当てて考えた。
どこをどう間違えるとこの本がここに混入するのだろうか?
その時だった。
身体が回復してきたジョージに先月から日本語を教えているISO職員の
萩生田豪が疲れきった様子で部屋へ入ってくるとこう言った
「南部博士、ジョージ君にはきちんとした日本語を教えたいのですが・・」
「一体どうしたというのかね?」
南部博士のメガネがキラリと光る
「はい、私のあとに続けてちっとも話してくれないのです」
「ふむ」
「で、思わず自分の地元の言葉が出ますと・・」
「上手に真似て話すというわけか・・ね?」
博士の眉が片方上がる
「はい・・」
萩生田は―いつもながらではあるが―博士の鋭い洞察力とその眼光に圧倒された
気弱いその返事に博士の表情が和らいだ
「いいではないか?萩生田くん。江戸弁だって立派な日本語だ。
気風がよくて・・」
「はぁ・・?」
『それでは日本語教師失格だ!』と言われても仕方ないと思っていた萩生田は多少・・いや大いに気抜けした。
―そうか、あの子はいま両親を亡くし愛情に飢えているはずなのにそれを素直に表現できずに、逆に反抗的な態度をとることによって周囲から注目を浴びようとしているのだな・・
そう考えた博士は思わず手に持っていた本を萩生田に渡すとこう言った
「萩生田くん、彼には正面からぶつかってもダメだ。教えようとするのではなく学べるようにしてやってくれたまえ。子供が親の言葉を自然に覚えるのと同じだ」
それが日本のことわざとどう関係するのか?
萩生田にはよくわからなかったが南部博士のことだ、きっとなにか深い意味があるのだろう。
「はい、そうします。南部博士」
そう答えた萩生田の目には輝きが戻っていた。
そしてその本を受け取ると、ジョージの自室へと戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら博士は心の中でこう言った。
「頼むぞ、萩生田くん。君とそっくりな江戸弁を話し始めたばかりだったのに急な病気で
夭逝した君の息子くんもきっと天国から応援しているはずだ・・」
(おわり)
