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スナフキンの花嫁

夏を迎えたムーミン谷は、晴れわたった空の下、今日もゆっくりと時が流れてゆきます。
いつものように川岸で釣りをしていたスナフキンでしたが、ウキはピクリとも動きません。
「うーんっ」伸びをしてそのまま後ろへ身体を倒すと見えるのは青い空だけ。
帽子を顔の上にかぶせると、しばらくのあいだ風の音を聞いていました。
しばらくして風がやんだので目を開けてみると小さな雲がひとつ浮かんでいました。
「ムーミンだな。あの雲の形は。」そういって起き上がるスナフキン。
「もう少し川上へ行ってみよう」そう小さくつぶやくと、竿を上げ釣り糸をそれに丁寧に巻きつけました。
片方の手で上着のすそを払うと「そんな汚い格好では女の子にもてないわよ。」と言われたことを思い出して、ちょっとだけ首をすくめクスリと一人笑いをしました。
そしてその手でバケツを持つと森の方へと歩き出しました。


 森の中は涼しい風が吹いて気持ちがよく、釣果は無くてもスナフキンはそれだけで満足でした。
大きく深呼吸をしたその時です、ウキが小さく揺れました。
「来たか!?」
竿を上げてみましたが何も掛かってはいませんでした。針が「残念でした」とでもいうようにキラリと光りました。
 しかし次の瞬間スナフキンは川の向こう岸をどこから来たのか小さなボートがゆっくりと流れていくのを見つけました。そして恐ろしいことにそのボートには矢が2本突き刺さっていたのです。
 考えるよりも先に身体が動いていました。腰の辺りまで水につかりながらボートに近寄るとこれ以上流されないように岸につけました。
中を覗いてみるとそこには、亜麻色の長い髪をした女の子がひとりうつぶせになって倒れていました。
お日様の光でその子の髪は金色に鈍く光っています。
(ま、まさか死んでいるんじゃ…)
でもその娘に矢は刺さっていませんでした。
「きみ、しっかりしたまえ。大丈夫かい?」
ボートに乗り込むとスナフキンは彼女を抱き起こしました。
透き通るように真っ白いその顔に血の気はありません。目は閉じられていましたがカールした長いまつげがかすかに動きました。おでこやほほに付いた泥をやさしく拭ってやると、ほんの少しまぶたが開きました。
美しいエメラルド色の瞳がスナフキンのチョコレートブラウンの目を一瞬見つめました。
「ヨク…サ…ル…?」
小さな声でした。しかし、はっきりとヨクサルの名を呼ぶと再び気を失ってしまいました。
「ヨクサルを…僕のパパの名を…なぜ?なぜこの子が知ってるのだろう?」
そのとき、スナフキンは、はっとしました。お日様がもう真上に来ているというのにこの子の身体は氷のように冷たいではありませんか。
「いけない!暖めてやらなくては。そうだ、この近くにクラリッサの家があるはずだ。」
スナフキンは女の子を抱き上げると、ボートからひょいと岸に飛び移り歩きはじめました。
クラリッサの家へ行くまでの間、ヨクサルと女の子の関係をいろいろと考えましたが見当もつきません。

「おーい、アリサー!クラリッサー!いるか?い!」
両手が塞がってるスナフキンは、クラリッサの家の前でドア越しに大声で呼びかけました。
でも家の中はしんと静まり返っています。
「まだシャーロンの洞窟へほうきを取りに行ったままか。」
スナフキンは背中でドアを押してみました。するとドアは簡単に開きました。
「無用心だなあ。ま、この辺には泥棒はいないし、いたとしても金目のものはないしな。」
向き直って中に入ると少しだけ何か薬のようなにおいがしました。前にここでヘビに縛られたことを思い出してぶるっと首を振りました。
「アリサの部屋へ運ぼう。アリサ、部屋を借りるよ。」
そう独り言でつぶやくと女の子を二階の部屋まで運びベッドに寝かせました。
「元気になるかなあ。」
スナフキンはこの子が目を覚ますまでここにいてやろうと思っていました。
「ムーミンのところへ行ってママに何か作ってもらいたいけど、目を覚ました時に一人ぼっちではかわいそうだからな。」
ベッドサイドの椅子に腰掛けると小さな音でそっとやさしくハーモニカを吹いてやりました。

窓から射すお日様の光が少し傾きましたが、かえって日差しは強くなりました。スナフキンは恐る恐る女の子のおでこに手を当ててみました。ほほにうっすらと赤みが差していました。
「よかった。少し空気を入れ替えよう。」
スナフキンが窓を開けると新しい空気が風となって部屋の中に入ってきました。
「んー、いいきもちだ。」もう片方の窓を開けようとしたときです
「こ…こは…ど…こ?」
思わずスナフキンは窓から空を見上げてしまいました。天使が舞い降りてきて自分に話しかけたのかと思ったからです。
「気が付いたんだね。」
そういいながらベッドを覗き込んでスナフキンはハッとしました。
大きく開かれたエメラルド色の瞳に涙が溢れそうになっていたからです。
「ここは天国ですか?わたくしのパパとママはおりますでしょうか?」

女の子のどこか気品のある言葉遣いとその言葉に驚きながらもスナフキンは平静を装って静かに話すのでした。
「残念ながらここは天国じゃないよ。君はまだ生きてるからね。」
出来るだけやさしく言ったつもりでしたが女の子の目から大粒の涙がこぼれました。
「パパもママもみんな死んでしまったわ。殺されたの!」
枕に顔を押し付けるようにして、女の子は激しく泣きじゃくりました。
スナフキンはその言葉に本当に驚きました。そして女の子が乗っていたボートに矢が突き刺さっていたのをまざまざと思い出しました。
「き、君も殺されそうになったんだね。」

スナフキンはこの子に聞きたいことがたくさんありました。でも今はひとつだけにしようと思いました。そして大きく息を吸うとこう言いました。
「ねぇ、君。名前を教えてくれないかい?僕はスナフキン。」
「わたくしは…」
まだ涙声でしたが顔を枕から少し離して手でほおをなで、顔を上げるとエメラルド・グリーンの瞳でスナフキンの顔をじっと見つめ
「わたくしは、シエナレイ・ヌフモンテ・デュール・ユイリンケイリスと申します。クリスタル王国の王女です。」と一気に自己紹介を終えた。
スナフキンがあっけにとられていると目を伏せ
「…いえ、ごめんなさい。クリスタル王国はなくなりました。父も亡くなったのでわたくしは王位を継げませんでした。」と彼女の話は続いた。
「アイリス…と呼んでください。王位継承権がなくなったときの名前です。してそちの名は…あ、ごめんなさい。もう普通の言葉を使いますわね。あなたはスナキンというのですね。ムムリクの一族でヨクサルという人に似てますわ。」
「そう!そのことなんだけど。」
スナフキンが思わず大きな声を出したのでアイリスはびくっとして、ベッドの上に起き上がってしまった。
「ごめんね。怖い目にあってきたのにまた脅かしてしまって。」
「ううん、もう大丈夫ですわ。ありがとう、スナフキン。私を助けてくれて。あなたもムムリクなの?」
「気になるかい?」
マクラを立てて起き上がったアイリスの背当てになるように直しながらスナフキンは訊ねた。
「ありがとう。ええ、気になるわ。だってムムリクのヨクサルはクリスタル王国の救世主で名誉国民だったのよ。」
「へえ、そいつはすごいな。残念だけど僕はムムリクの血筋は半分しか受け継いでないんだ。ママはミムラだからね。でもそのヨクサルというのは僕のパパだよ。君がヨクサルを知ってるってことは君は見かけによらず、長く生きているのかい?」
スナフキンは椅子をちょっとだけベッドに近づけるとちょっとおどけてそう言いました。その時はじめてアイリスの顔に少しだけ微笑が浮かびました。それは朝露にぬれて咲いた深紅のバラのようでした。
「あぁ、やはりそうでしたか。あなたがスヌスムムリクだったのですね。旅の途中だったヨクサルが貧しかったクリスタル王国に来て私の父と母の縁結びをした のです。そして持っていたリンゴとリンゴの種で王国を飢えから救い名誉国民となったのです。もちろん、私が生まれる前の話ですが。」
「ヨクサルはずっとクリスタル王国にいたの?」
スナフキンは自分が知らなかったヨクサルの話を聞きたくて、立ち上がってアイリスにグッと近づこうとしましたが、思い直して椅子の向きを変えると背もたれの上にひじを乗せて、頬杖をつくと「長い話を聞く体制」になりました。

アイリスはじっと前を見据えてこれまでのことを話し始めました。

☆☆.。.:*・゜*:.。.☆☆.。.:*・゜*:.。.☆☆.。.:*・゜*:.。.

その年の夏は、雨ばかり降る寒い日が続いてとうとう作物は育ちませんでした。クリスタル王国のフィスクランテ王は心を痛めていました。
「これでは、秋の収穫祭は出来ないなあ。そこで私の花嫁を選ぶはずであったのに。それどころか飢えて死ぬ国民も出るかもしれないぞ。」
 そんなことを考えていると、どうも外が騒がしい。そこでバルコニーから外を見てみると、三角形の帽子を被った旅人らしき男が一人、城の護衛たちともめているところでした。
「どうした?」
「はっ、この男が突然ここにリンゴの芯を捨てたので…。」
「捨てたんじゃありませんよ。芯ごと種を植えようとしたんです。」
「いい加減なことを言うんじゃない。今年は麦の穂ひとつ実らないひどい凶作なんだぞ。」
「そういう時こそ、このリンゴは良く育つんだ。そういう品種なのさ。」
そんなやり取りを聞いていた王様は、バルコニーから身を乗り出してこういいました。
「その男の好きなようにさせてやりなさい。してそちの名はなんと申すか?」
「えっ、僕はヨクサル。」

こうしてお城の前庭に植えられたヨクサルのリンゴの木はその二日後、一日だけ雨がやんだその日の夜が明けるとバルコニーのはるか上まで成長したのでした。そしてあっという間にたくさんのリンゴの実を実らせ、また雨が降り出す頃にはその全てが収穫できたのです。
こうしてその年の夏は暑くならずにとうとう終わってしまいましたが、秋の収穫祭が来るまでにもう三回、リンゴは実りました。そのどれもが今まで食べたことが無い美味しさでクリスタル王国の国民たちは皆幸せな気持ちでいっぱいでした。

いよいよ収穫祭が始まり、フィスクランテ王のお妃選びのパーティーが始まりました。花嫁候補の娘たちは精一杯のおしゃれをして王様とダンスをするのです。 ダンスが始まる前に王様は集まってきた国民の前でヨクサルを紹介するとその功績をたたえてクリスタル王国の名誉国民としたのでした。
 やがてそのダンスパーティーも終わりに近づき王様のお妃選びが始まりました。高らかにラッパが鳴ると美しく着飾った娘たちが王様の前に並びました。
しかし、フィスクランテは彼女たちの前をつかつかと通り過ぎると会場の隅にある大きな柱の陰に隠れるようにしていたソーフィンナのところへいくと片ひざをついて彼女の手をとると「私の妃になってくれますか?」と、正式のプロポーズをしたのでした。
 見守る国民たちがあっけにとられているとき一人、大きな拍手をしたのがヨクサルでした。
「僕も彼女がいいなと思っていたんだ。」

*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*

「こうして、パパとママは結ばれ私が生まれたのです。」
「きみもヨクサルに会ったの?」
「いいえ。私が生まれたとき、彼はもうクリスタル王国にはいませんでした。しばらくはリンゴの木の上で何もしないで暮らしていたらしいのですが、また冒険 の旅に出たのです。でも旅立ちの前にパパが国中で一番の絵描きにヨクサルの肖像画を描かせたのです。生まれてくる子にこの国の英雄を見せるためにね。」
「信じられないなあ、父さんがヒーローだなんてさ。」と、スナフキンは少し照れて言いました。
「でもあなたはその肖像画にそっくりですわ。」
そういってスナフキンを見つめるアイリスのエメラルド色の瞳はキラキラと輝いていました。

その時です。窓の外でミィの声がしました。「スナーフキーン!」
「ミィ、ここはクラリッサの家だよ。」とムーミン。
「でもさっきこの辺で確かにスナフキンの声がしたのよ!釣りの道具をほったらかしにしてあったのよ、何か面白いものを見つけたに決まってるわ!スナーフキーン!」

「やぁ!ミィ、ムーミン!」
スナフキンは2階の窓から身を乗り出して声をかけると、
「本当のお姫様を見たくはないかい?」とムーミンにたずねました。
「ほ、本当のお・ひ・め・さ・ま…?!」

「スナフキンったら、もう私は王女ではありませんわ。」
「えーっ!ねえ、どうして王女様やめちゃたのよー。」と、ミィ。
「そうだよ。ぼくだったら絶対やめないよ。」と、ムーミン。
「ちょっとアンタ、男の子が王女になれるわけないでしょ!」

そんなミィとムーミンのやりとりを微笑みながら聞いているアイリスを見てスナフキンはホッとしました。そして悪夢を忘れようとしている彼女を愛(いと)しく思うのでした。

もう夕方です。みんなでムーミン屋敷に帰ることにしました。

「まあまあ、スナフキンがお友達を連れてくるなんて珍しいことがあるものねえ。歓迎しますよ、アイリスさん。」と、ムーミンママは特製のスープを夕食に出してくれました。
「ママったら、アイリスでいいのよ。もう王女様じゃないんだから!」と、ミィ。
「あら…そうなの。」
「その話はまた明日でもいいじゃないですか。」とスナフキン。「じゃ、僕はそろそろ失礼しますよ。ママ、ご馳走様でした。パパ、おやすみなさい。ムーミン、アイリスをたのんだよ。」
ムーミンは大喜びでしたが、ママにアイリスは疲れているようだから今夜はそっと寝かせてあげるようにといわれて、元気になったら一緒に遊ぶ約束をして眠りにつきました。

次の日の朝早くアイリスはムーミンママに教えてもらった湖へ一人で向かいました。ムーミンやミィはまだ夢の中でした。
湖面には朝霧がたちこめていましたが、スナフキンはもう一人で木の根っこのベンチに腰掛けて釣り糸をたらしていました。
「釣れるの?」
「いや。」
アイリスが後ろから声をかけたにもかかわらず驚く様子もないスナフキンは、振り向きもせずに少し背中を丸めた「釣りの姿勢」のままぶっきらぼうに答えました。
「おはよう、アイリス。よく眠れたかい?」
「ええ、おかげさまで。隣りに座ってもいいかしら?」
「ああ。」
「ムーミンママがたぶんここだろうから、コーヒーとジャムパンケーキを持っていきなさいと教えてくださったの。」
そういってアイリスが差し出したバスケットには小さなリンゴもひとつ入っていました。
「このリンゴは?」とスナフキン。
「これは………。これがサー・ヨクサルが伝えてくれたリンゴの実ですわ。最後のひとつです。たぶん…。」
「えっ…」
「私の服のポケットに入っていたんです。夕べ寝たときに思い出して…。」
スナフキンは黙ったままでした。アイリスは続けます。
「ママにリンゴジャムにしてもらおうと思って話したら、これはスナフキンに見せなさいといわれました。そして私の国に起きたことをみんな話してくるようにとも言われました。ママは、もう大体のことを察しているみたいでしたわ。」

☆*:;;;:**:;;;:*☆*:;;;:**:;;;:*☆*:;;;:**:;;;:*☆

ヨクサルがクリスタル王国から旅に出たあとも彼のリンゴの木とフィスクランテ王とその王妃ソーフィンナのおかげで国民たちは静かで平和な日々を過ごしてい ました。そして王女のユイリンケイリス(アイリス)が誕生してからは王室にも国民にもますます幸せで穏やかな毎日が訪れていました。

 ところが来年の収穫祭にはいよいよユイリンケイリスの許婚(いいなずけ)を決めようとしていたとき、海の向こうのゴルギン公国から使者とは名ばかりの軍隊がやってきて、全てのリンゴの木と王女をよこせと迫ってきたのです。
リンゴは、種や苗木があればいくらでも増やせるから差し上げることは出来ますが、王女はこの世にたった一人です。それにゴルギン公国のステッケン公にはすでに5人の王妃がいるのです。フィスクランテ王は話せばわかることと言ってきっぱりとこの話しを断りました。

ところが、ステッケン公は逆上してクリスタル王国を攻めてきました。
平和に暮らしていたクリスタル王国の国民は武器など持ったことがありません。あっという間に国中が火につつまれてリンゴの木は全て燃えてしまいました。
「王女をワシの妃に差し出せば王の命だけは助けてやるぞー!」
しかし、王と王妃は侍従のマローンと共に王女をそっと国外へ逃がしたのです。
ついに宮殿を占領したステッケン公でしたが、肝心の王女の姿が見当たりません。
「くっそー!国外へ逃げたな!追え、追うんだ!!生け捕りにしたものには金貨50モガン、亡骸(なきがら)を見つけたものには銀貨50モガンをやるぞーっ!」

王女と侍従のマローンは、追っ手を逃れようともうどこをどう逃げたかわかりません。昼も夜もずっと走り続けましたが、ステッケン公の軍隊は追いついてきます。
そしてついに大きな川にたどり着きました。が、弓矢がどこからともなく飛んできます。
「さあ、王女さま、これに乗って逃げるのですよ。」古くて小さな舟が一艘、川岸にありました。

ビュン、ビュン!矢は舟に刺さりましたが王女には当たりませんでした。
しかし「うっ!」
「マローン!」
「王女様…私は…だ、大丈夫です。逃げて…ください。生きるのですぞー!!」
マローンは最後の力を振り絞って舟を押しました。舟はゆっくりと動きはじめました。
「マローン、パパ、ママ…さようなら。サー・ヨクサルに会いたかった…。」
もう、ステッケン公の軍隊も追っては来ないでしょう。

☆*゜ ゜゜*☆*゜ ゜゜**☆*:;;;:*☆*:;;;:

アイリスが話をしている間ずっと動かないウキを見つめたままだったスナフキンが、口を開きました。
「これからは、ずっとここで暮らせばいいさ。僕も旅に出るのはやめてここでずっと……」

「スナーフキーン!」
口々にそういいながら走ってきたのはムーミン、ミィ、スニフ、フローレン、スノークでした。
「やあ、どうしたんだい?みんなそろって。」
「やーねー、スナフキンたら忘れちゃったの?今日はヘムレンさんのところへ新しいランの花を見に行くって前から決めていたでしょ?」
「あー、そうだったね。アイリスも行くだろ?」
「ええ、もちろん。」そういってアイリスは小さな最後のリンゴをもう一度そっとポケットにしまいました。

ヘムレンさんの家で、とても良いにおいのするランの花を見た後、アイリスは良いことを思いつきました。
「ヘムレンさん、私、故郷からリンゴをひとつ持ってきたのですけれどもみんなで少しずつ分けて食べた後、このお庭に『芯ごと』種を植えてもいいかしら?」
「あー、いいですとも。きれいなお嬢さんの頼みじゃ断れんからの。それにちょうどこの辺に何か植えたいと思っていたところなんじゃよ。」
「よかった。」

こうしてクリスタル王国最後のヨクサルのリンゴは、ヘムレンさんの庭に根を張ることになりました。

「来年はもっとたくさん食べられますね。」スナフキンも嬉しそうです。

ムーミン谷の夏はこうして平和な毎日の中、過ぎて行きました。


ムーミン谷の短い夏も終わりに近づき、おさびし山の向こうから涼しい風が吹いてくるようになりました。
その風が、テントをバタバタとゆらしたのでスナフキンは目を覚ましました。
「あ…、夢だったのか。よかった…。」
スナフキンは珍しく恐ろしい夢を見ていたのです。それは、川を下る小さな舟に大きな矢が刺さる夢でした。

スナフキンは胸騒ぎを覚えて、テントを出るとムーミン屋敷へ向かいました。

朝早いというのにムーミン屋敷の煙突からはもう煙が上がっていました。ムーミンママとアイリスがすずめよりも早く起きてコーヒーを沸かしているのです。
アイリスは、ムーミン屋敷に寝泊りをして「将来のために」ムーミンママから料理や掃除、洗濯などの家事を習っていたのでした。
「あら、スナフキン。早いのねえ。今ちょうどアイリスがコーヒーを淹れたところよ。飲んでいくでしょう?」と、ムーミンママはにっこりと微笑みました。
「ええ、ママ。そのコーヒーをポットに詰めていただけませんか?アイリスと一緒にいきたいところがあるんですよ。」と、スナフキン。
ムーミンママは二人でどこへ行くのか、なんてそんな野暮なことは聞きません。でもあとで起きてきたムーミンやミィたちにはなんて言おうか?それを考えていました。

スナフキンは黙ったまま、森の方へとどんどん歩いていきます。アイリスも何も言わずに彼についていきました。
そして、あの日アイリスを乗せた船を見つけた場所に来たのでした。でも、そこに舟はありませんでした。
「しまった。やっぱり流されていたか…。もう、海へ出てしまっただろうなぁ…」
アイリスにもその意味がすぐにわかりました。
ステッケン公の軍隊が放った矢が刺さっている舟です。海に出た舟を彼らが見つけたら潮の流れをたどってきっとムーミン谷に来るでしょう。

「すまない。アイリス。もっと早く気がつくべきだったよ。」
「私、どうしたらいいの?」
アイリスは急に不安になりました。
「今日はムーミン屋敷には帰らないほうがいいかもしれない。森の中のクラリッサの家を覚えているだろ?あそこの方が安全だよ。」
「スナフキン、でも…。」
「大丈夫。僕がついている。君をどこへもやるもんか。」

二人はクラリッサの家へ急ぎました。
しかし、そこに待っていたのは…。

ミィとスニフでした。

「ミィ、スニフ…。どうしたんだい?」
ミィはなぜか怒っていてプンっと横を向いています。
「ス、スナフキンが…いけな…い…んだ…」スニフは弱々しい声で言いました。
「僕が?僕が何かしたのかい?」
ミィが口を開きました。
「アンタがアイリスをムーミン谷につれてくるからじゃない!?」
スニフはとうとう泣き出しました。
「だってアイリスがどこにいるか言わないと、ヒドイ目にあわせるって言われたんだよー!」
「まさか…。それで…?」
「スニフが明日のお昼までに見つけて連れてくるって約束しちゃったのよ。」と、ミィ。
「だって、ムーミンたちは殴られちゃったんだよ。ぼく、痛いのヤだもん。」スニフは涙が止まりません。
「ム、ムーミンが殴られたって?!」スナフキンは自分の耳を疑いました。
「アイリスのこと知らないって言ったからさ。パパもママも…」
「な、殴られたのかっ?」
「ううん、突き飛ばされた。ムーミンをかばって…。」スニフの声は震えていました。
「わかったでしょ?スナフキン。」と、ミィ。
「…アイリスを渡すわけにはいかない…。」
「なーに言ってるのよ、スナフキン。ムーミンはね、最近スナフキンが遊んでくれなくなったって言って寂しがっていたのよ。それはみんなアイリスのせいだっていうのに、ムーミンたらアイリスまでかばってさ。」
ミィの言葉にスナフキンは返す言葉がありません。
そのとき、スナフキンの後ろで震えながらずっと泣いていたアイリスが、頬の涙を両手の甲で拭いながら言いました。
「明日の朝…、明日の朝、ムーミン屋敷にアイリスが帰るとステッケンに伝えてください。そして私が来るまでムーミンたちに暴力を振るわないと約束させるの です。いいわね、ミィ、スニフ。シエナレイ・ヌフモンテ・デュール・ユイリンケイリスの名前において約束したといえば大丈夫だから。」
「わ、わかったわ。」さすがのミィもアイリスの決意におされ気味です。
「シエナレイ・ヌフモンテ・デュール・ユイリンケイリス…だね…」スニフはこういうときにはすごく物覚えがよくなります。
「ちゃんと伝えるからねー」そういい残してミィとスニフは日が暮れかかった道を走り出しました。

「アイリス…、き、君…。」
「いいんです。スナフキン。いつかこういう日が来るような気がしていました。お別れの前にひとつお願いがあるのです。聞いてくれますか?」
「あ、ああ…。」
アイリスのエメラルドグリーンの瞳はスナフキンのチョコレートブラウンの瞳をじっと見つめていました。彼女の瞳にはスナフキンが映っています。

「わたくしと、結婚してくださいませんか?」

夕日が真っ赤に燃えてアイリスの白い顔も亜麻色の長い髪も茜色に染まっていました。

「あぁ…、アイリス…もちろんだとも。」
「スナフキン…。」
アイリスはスナフキンの胸に飛び込むとマフラーに顔を押し付けて声を出さずに泣き出しました。
スナフキンはアイリスを強く抱きしめると、
「アイリス。愛しているよ。君がどこへ行ってしまおうとも。ずっと…。」
そう言うのが精一杯でした。
アイリスはマフラーに顔をつけたままうなづきました。
「二人で、二人だけの結婚式をしよう。」スナフキンはそう言ってアイリスの背中をやさしくなでるのでした。

クラリッサの家の中は、あの夏の日のままでした。
蝋燭に火を灯すと二人はほの暗い光の中でまたお互いをじっと見詰め合うのでした。アイリスが目を閉じるとスナフキンは彼女の頬を両手で包むようにしてその唇にキスをしました。明るい春のお花畑にいるような気持ちになりました。
でもアイリスの目からは真珠のような涙がこぼれ落ちてきます。
「私…もう泣かないわ。こんなに幸せなんですもの。」
スナフキンはその『最後の涙』をやさしく拭ってやると、もう一度確かめるようにアイリスを抱きしめて
「これで、僕たちは結ばれたね…。」
そう言うと蝋燭の火を消しました。


次の日の朝、ムーミン谷のムーミン屋敷の前にはゴルギン公国の騎馬隊がずらりと並んでいました。楯と槍が朝日に鈍く光っています。
その後ろには弓矢を携えた歩兵師団が身じろぎもせずに集合していました。
白馬にまたがったヒゲ面の小男が騎馬隊の前に出ると、兵隊たちはいっせいに『かまえつつ』の姿勢になりました。
「スニーフ!!出て来い!!」
その男、つまりステッケン公のガラガラ声がムーミン谷にこだまします。
「…へ…へ…、ふぁい…」
弱々しい返事をしながらスニフがおずおずと出てきました。
「貴様の言った朝になったようだな!」
「は、はい。ステッケン公様。で、でもお昼が来るまでは朝ですから…。」
「ん、ふっふっ。上手いことを言いよるわい。で、どうなんだ?昼までに来るのか?」
「ですから、そのシエナレイ・ヌフモン…」
「うっ、あ…。その名を言うな。貴様のような身分の低いものが、口に出来る名ではないぞ。」
その時、ステッケン公の背中を緋色のマントの上からポンポンッとたたくものがいました。
「いいか、身分の低いものが気安くポンポンと背中をたたく…うん?」
ステッケン公が後ろを振り向くとそこにはアイリスが一人で立っていました。
長くおろしていた亜麻色の髪をきちんと結い上げ、その顔は少し青白く血の気が薄らいでいたものの、凛とした決意がエメラルド色の瞳に現われていました。

「ステッケン!わらわの前でそのようなみっともない言動は許しませんぞよ。恥を知りなさい!」
「こ、これはこれはシエナレイ・ヌフモンテ・デュール・ユイリンケイリス殿…ご機嫌麗しゅうございます。」
「そちにわらわの名を呼ばれとうないわ!」
「しかし…」
「ステッケン!」
「ははっ!」
「ムーミンたちに陳謝するのです。」
「ち、チンシャ?…」
「謝るのです。」
「あ、あやまる?」
「たわけ者!武器も持たずに平和に暮らしている者たちにステッケン、そちはなにをした?!言うてみい!」
アイリスの凛と張りつめたそれでいて美しい声がムーミン谷にこだましました。それは、いままで見たことがないアイリスのクリスタル王国最後の王女としての姿でした。

「あの…、アイリス…。」
口を開いたのはムーミンでした。
「なあに?ムーミン。」
そうこたえるアイリスは昨日までのやさしいアイリスでした。
「あの、ぼく。ごめんなさい。スナフキンと遊びたくてアイリスなんかいなくなっちゃえって言ったの‥。」
「ムーミン。謝るのは私のほうだわ。私をかばって昨日ステッケンにぶたれたんでしょう?大丈夫だった?痛かったでしょう?」
ムーミンは黙って首を振りました。
そして、ミィも
「アイリス、昨日はちょっと言い過ぎたわ。」
「ううん、ミィの言うとおりよ。私あなたのこと大好きよ。遠くへ行ってもみんなのこと絶対に忘れないからね。…ヘムレンさん、あのリンゴの木。お願いね。」

「皆のもの!引き上げじゃあ!」
そういうと、ステッケン公は馬に乗ったまま信じられないほどの強い力で乱暴にアイリスを抱え上げると自分の前に乗せました。
「んー、ふっふっ。やっと私のものになったなあ。」

ムーミンは、はっと気がつきました。
「ス、スナフキンは?」
アイリスはそれには答えずに髪留めの飾りをはずすと
「ムーミン、これをスナフキンに渡してちょうだい。私が、私のママからもらった形見のダイヤです。頼んだわよ、ムーミン。」
「だ、ダイヤだとぉ?」
ステッケンは目を丸くしました。
が、しかしすかさずアイリスが
「ステッケン!出発しないのですか?私を置いて行ってくれても良いのですよ。」
と、切り返すと
「えぇーい!皆のもの、引き上げじゃ!帰るぞー!!」
「おーっ!」
言うが早いかステッケン公の軍隊は風のようにムーミン谷から去って行きました。


秋の冷たい風が吹くムーミン谷に、スナフキンのハーモニカがどこからか聞こえてきます。それは、今までに聞いたことのない悲しいメロディーでした。

(おわり)



2007年12月ごろ執筆

拍手

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ドアの向こう側

 空色のすりガラス製ドアを押してスナックジュンへ入るとテーブルの真ん中にピンクのバラがたくさん活けてあったのでジョーは一瞬身構えた。

「あら、ジョー。こんな時間にめずらしいわね」
ジュンがカウンターの中から声をかけてきた。
「珍しく豪勢な飾りつけだな。何かのパーティーか?」
ジョーは腕組みをしたままカウンターにちょっとだけ寄りかかると上目づかいに
ぐるりと店内を見回した

「そうなの。誕生日パーティーの予約が入ったのよ」
アイスピックで氷を割りながらジュンが答える

「ふん、こんなところでパーティーとは物好きなやつもいたもんだ」
長くしなやかな指先を割れた顎にあてるとジョーは小さくつぶやいた。
「なぁに?なんか言った?ジョー」
ジュンが詰め寄る
「いや、なんでもねぇ。そ、そうだ。甚平は?」
眉間にしわを寄せ無理に怖い顔を作るジョー。

「買い出しに行ってるわ。もうすぐ戻るころよ。パーティーの主役さんももうすぐ見えるころだし。なんだ、甚平に用事なの?」
「あぁ、まあな」
ジョーがズボンのポケットに両手を突っ込むと長身の身体を左右にひねるようにしてあいまいな答えをしたときに、肩でドアを押して甚平が戻ってきた。
両手にスーパーのビニール袋をいくつも下げている
「よう、甚平!」

 甚平はジョーをスルーすると
「おねぇちゃん、外にきれいな女の人が立ってるよ」と小声でジュンに伝えた。
「あら、大変。もうみえていたんだわ。ジョー、今日は貸切なの。またね」
「はぁ?」
ジョーはジュンの冷たい言葉に押し出されるように今さっき開けた入り口のドアに手を掛けた。

その時、そのドアは向こう側から押された。
「あ」
「あ」
ジョーと今日の主役の女性の目が合った。

「いらっしゃい、ピピナナさんでしたわね」
ジュンがとびっきりの笑顔を向ける。
「はい」

「ジョー」
ジュンはジョーに出て行くようにとアゴを突き出して首を振った。
「はいはい、退散しますよ」

「ピピナナさん、お誕生日おめでとう♪」
ジョーはできる限り怖くないように笑顔を作り、よく響くその声を今日の主役さんへかけるとスナックジュンを後にしたのだった

(おわり)

拍手

必殺仕掛忍者賀茶満

必殺仕掛忍者賀茶満


配役

念仏の健
棺桶の錠
鉄砲玉のおじゅん
おひろめの甚平
北町奉行所同心・中西主水
元締・南部の旦那

中西せん
中西おりつ

壷振りのお響

勝栄親分
江楠越後守相哉


(オープニング・ナレーション)
この世の悪をなんとする
天の裁きを待ってはおれぬ
正義の使者もあてにはならぬ
闇の陰から仕置する
その恨み晴らしやしょう
南無阿弥陀仏

(シーン1=場末の賭博場)
勝栄親分をはじめとする柄久田組が仕切る品川宿外れの賭博場。ふんどし姿でお守りだけを首から下げた痩せた男がツボを振っている

壷振りの男:ようござんすね?入ります
(さいころをツボに入れる)

柄久田組組長:さぁ、はったはった!

お客1:丁!
お客2:丁!

柄久田組組長:半方ないか?半方

念仏の健(以下、健)半!

(柄久田組組長が勝栄親分と目配せをする)

柄久田組組長:丁半、コマそろいました・・勝負!

(壷振りの男がツボを取る)

壷振りの男:グニの半!

(健、満足そうに胸を張る)

お客たち:あー
お客たち:やられた

柄久田組組長:え〜、ここで壷振り人の交代をさせていただきます。姐さん・・
(組長の案内で白地に黒と朱の縞模様を染めた粋な着物姿のお響が賭場へ入ってくる。)

お響:(賭場を見渡しながら)お響と申します。訳あって流しの壷振り、今宵は勝栄かつえい親分さんの厚意で壷を振らせていただきます。お見知りおきを
(三つ指をつく)

(お響の凛とした声に場内がどよめく)
(健と甚平は顔を見合わせてにんまりと笑いながらお互いの腕や胸をつつきあう)

健:いい女じゃないかー
甚平:掃き溜めに鶴とはこのことだね、兄貴
錠:フン(腕組みを決め込む)

(錠をちらりと見たお響は勢いよく片肌を脱ぐ)

お響:ようござんすね?入ります!

お客たち:(次々と)丁!半!・・
健:半!

甚平:錠の兄貴は丁にするの?それとも半かい?
錠:(眉間にしわを寄せてじっと考える)かわいいこだ、美しい・・
甚平:え?
錠:いや、なんでもねぇ・・丁!

柄久田組組長:丁半、コマそろいました。勝負!
(お響がツボを取る)

お響:ニゾロの丁

(健はがっくり。錠はガッツポーズ)

柄久田組組員:ちょっと待ったぁ!
お響:何をするのさ、放しとくれ
(組員がお響を取り押さえると、組長がさいころをかみ砕く。中におもりが入っている)

組長:このアマぁ!
(その時、畳が舞い上がりろうそくの火が消えた)

柄久田組組員:逃げたぞ!追え、追え

(健と甚平、錠はそこに置き去りになった金銭を懐へ掻きいれるとあっという間に賭場を出る)


(シーン2=夜道)

お響:はっ、はっ(追っ手を気にしながら静まり返った品川宿の裏道を駆けてくる)

(健が闇の中から現れる)
お響:うっ
健:お響・・だったな。ふっ、やってくれるじゃないか?
(お響、踵を返し、後ろへ逃げようとする)

錠:(やはり闇の中から現れその道をふさぐ)もう逃げられねぇぜ!
甚平:(健の後ろから現れる)まったく、きれいなお姐さんだなと思っていたのに。とんだイカサマ女だよ

お響:い、イカサマ?違う・・私はやっていない
錠:いまさら、いうか?

柄久田組組員ら:(声だけ。口々に)おい、いたぞ!こっちだ。どこだ?こっちだこっち!

甚平:アニキ〜、見つかっちゃうよ
健:仕方ない、錠。おじゅんのところへでも連れて行って後のことを考えよう
錠:よし。こっちだ(お響を後ろ手にして引きずるように闇へ消える)


(シーン3=おじゅんの茶屋)

お響:あっ(土間に倒れこむ)

健:(お響を柱に縛り付けながら)あまりこんなことはしたくないんだが・・

鉄砲玉のおじゅん(以下おじゅん):なぁに?こんな夜中に
(店から奥の土間へ降りてくる)

甚平:あ、お姉ちゃん。こいつだった。イカサマ野郎・・
おじゅん:(お響の顎を手で押さえて顔を見る)野郎じゃないよ、女じゃないか

錠:女だろうと男だろうと関係ないのさ。へっ、イカサマでたんまりため込んだものをどこへ隠してあるか吐いてもらおうじゃねぇか!?

お響:イカサマなんてするもんかい!
錠:ちぇ、気が強いなぁ。おじゅんといい勝負だぜ・・

おじゅん:え?
錠:いやいや・・こっちのことさ

甚平:こいつ、本当に元締めが言ってたイカサマ師なのかなぁ?アニキ〜
健:さぁな。・・だが、柄久田組の賭場でイカサマをやったことは確かだ。

お響:あれは、勝栄親分の罠だったんだ
健:そいつはどうかな?明日元締めのところへ連れて行ってやるから、覚悟しておけよ
お響:(健をじっと睨む)


(シーン4=元締めの隠れ家へ)

翌朝。
雨戸がガラリと開けられると健が出てきて周囲の様子をうかがう。合図をすると棺桶を担いだ錠が、続いて甚平が出てくる

(表通りのおじゅんの茶屋の前を「葬列」が通るとまんじゅうを食べながらお茶を飲んでいた中西主水がそれを見てお茶を吹く)

おじゅん:あーあぁ、汚いなぁ。中西さんは、もう!
中西主水(以下、主水):なんだ、ありゃ?誰がくたばったんだ?
おじゅん:ちょっと夕べね・・
主水:なにがあった?
おじゅん:(耳打ちする)
主水:(うなずくと立ち上がる)ごちそうさん(小銭をおじゅんに渡すと距離を置きながら三人を追う)


(シーン5=元締めの隠れ家)

南部の旦那の隠れ家の庭に棺桶が置かれる。その蓋を取ると中に猿轡をされたお響が入っている

健:元締め、こいつがイカサマをした壷振りです

(南部が障子をあけて縁側から棺桶の中を覗く)

元締・南部の旦那(以下、南部):そこから出してみろ
錠:へい(お響を抱き上げる)よっこらしょっと

南部:こっちへ(縁側へ座らせる)
(手足は縛られたまま、お響の猿轡を外す)うーむ(お響の顔をしげしげと見る)

主水:ごめんよ(庭へ入ってくる)
南部:おぉ、中西さん。こいつでしょうかね?
主水:どれどれ?なかなかの別嬪ですな

お響:あなたが、八丁堀の中西主水さまですか?!
主水:だったら?

お響:(縛られたまま主水の足元に土下座する)私の兄は佐々木孝三郎と申します。柄久田組の悪事を暴こうとして逆に罠にはまり殺されました

主水:なんだって?佐々木殿の・・(視線をお響から健へ移す)おい、健。

健:なんだ?八丁堀

主水:残念だが、こいつはイカサマ壷振りじゃないな
健:なにぃ?
主水:縄をほどいてやりな

錠:(お響の縄をほどきながら)だが、八丁堀よ。お響のサイコロには細工がしてあったぜ
健:俺たちは見たんだ、この目でな
お響:あれは・・
南部:さしずめ、勝栄がすり替えたんだろう。

健:なるほど、そうか
錠:くそう、勝栄め
甚平:(お響にやさしく)痛くなかったかい?お響姐さん
お響:ちょっとね。(腕に手をやる)でももう大丈夫だよ(ほほえむ)
甚平:えへへ(にっこり笑う)

南部:で、お響。佐々木殿はどのくらい勝栄の悪事をつかんでいたのだね?
お響:私もよくわかりません・・が、勝栄親分の背後にはもっと偉いお侍がいるのではないか?ということでした

南部:黒幕がいるということだな。八丁堀、思い当たる者はいないか?
主水:さぁ・・?

錠:なんでぇ、頼りねぇなぁ


(シーン6=とある料亭)

勝栄が畳の上に大きな菓子箱を出す。その先には芸者をはべらせた身分の高そうな武士が座っている

勝栄:江楠えくすさま、今月分のお土産でございます
江楠:ん、いつもご苦労だな。
勝栄:最近は不況でなかなかあがりも少なくて、かないません(手拭いで頭を拭く)
江楠:何とかならんか?勝栄。これが無いことにはお前に賭場を続けさせることも難しくなってくるぞ(片手でお金のサインを出す)
勝栄:そ、それは困ります。
江楠:イカサマをもっとやって儲けるんだな
勝栄:それが最近、気付く者がいましてなかなか難しくなって・・
江楠:(言葉をさえぎって)何を申すか、勝栄!バレそうになったらまた腕に覚えのある連中に消させればよいではないか
勝栄:はぁ・・
江楠:後のことは私に任せてどんどん、儲けることだな
勝栄:へへぇ(かしこまる)


(シーン7=中西家)

座敷でおりつとおせんがさいころを転がしている

義母・せん(以下、おせん):えいっ(さいころを投げる)
妻・りつ(以下、おりつ):(さいころの目を見る)お母様、3と6ですからサブロクの半ですわ
おせん:あー、もううまくいきませんね〜!
おりつ:では今度はわたくしが・・
おせん:いえ、もう一度わたしがやります!(さいころを奪う)
おりつ:あぁ!もう!

(疲れた様子で主水が帰ってくる)
主水:ただいまー

(おりつとおせんは気づかずにまだサイコロを取り合ってもめている)

主水:なんですか?一家のあるじが帰ってきたというのに・・
(主水の足元にサイコロが転がる。それをつまみ上げる主水)

おせん:おや、婿殿。おかえりなさいませ。
おりつ:おかえりなさい、あなた

主水:二人そろって何をしているのかと思ったら、サイコロ遊びですか?

おりつ:遊びだなんて、これをご覧くださいな。
主水:なんですか?これは・・
おせん:小間物屋へ行った帰りに瓦版屋がこれを配っていたんですよ

主水:なになに?(瓦版を読む)
『募集、女壷振り。どんな目でも自由に出せたら50両差し上げます』
(おりつに)おまえまさかこんなインチキを信じているんじゃないでしょうね

おりつ:もちろんですわ〜、でもどのくらいの確率で出るかちょっと・・
主水:ばかばかしい。それよりお腹がすきました。何か食べさせてください
おせん:あら、召し上がってこなかったんですか?ふかしイモならありますが・・

主水:(がっくりして)あー、そうじゃないかと思っていました。
ちょいと夜泣き蕎麦でもいただいてきます(出て行く)

おせん:(主水が出て行ったのを確かめると)行っちゃいましたよ
おりつ:(嬉しそうに)お母様、それでは(さいころを出す)

(おりつとおせんは再びさいころを振る)


(シーン8=有戸ゆうと長屋。甚平の家)

主水:ごめんよ(がらりと戸を開ける)
甚平:あれ?こんな時間にめずらしいね
主水:(甚平の耳をつまみ上げる)なんだ?あの瓦版は!?
甚平:いててて・・。あれにはちょいとわけがあって・・
主水:なんだ、言ってみろ
甚平:今日、町をふらついていたらさ、柄久田組の下っ端がいたんで・・

(回想)

甚平:(柄久田組組員たちに)ねぇ、今度はいつやるのさ。この前、ちぃっと儲かったんでまた遊ばせてよ
組員1:だめだめ、いま壷振りがいなくてね
甚平:え〜、つまらないなぁ
組員2:お兄ちゃんが探してきてくれれば、勝たせてやるぜ。いひひっ
甚平:本当かい?よーし。おれ、探してきちゃうもんね

(回想終わり)

甚平:・・というわけでお姉ちゃんを忍び込ませようと思うんだけど、すぐ壷振りが見つかったらかえって怪しまれるだろ?
主水:お前にしちゃ、手の込んだことを考えたな
甚平:えへへ・・
主水:で、おじゅんは?
甚平:アニキのところで壷振りの修行中さ。
主水:修行?
甚平:お響ねえちゃんが特訓しているってわけ
主水:ほう?


(シーン9=有戸ゆうと長屋。健の家)

おじゅん:(片肌を脱ぎツボを振っている)ようござんすね?入ります
(サイコロが一つ、壷から飛び出す)
(見ていた健と錠がずっこける)

甚平:(主水と共に窓から覗いて)ありゃ〜、だめだこりゃ
お響:大丈夫よ、さっきよりうまくなってるから。さ、もう一回
おじゅん:(健が拾ったさいころを受け取る)ありがと、健。ようし、今度こそ。ようござんすね?入ります!
(うまくいく)

甚平:やった!よーし、お姉ちゃん。今夜にでも柄久田組へ売り込みに行こうぜ


(シーン10=とある料亭)

料亭の豪華な座敷に通され、かしこまっているおじゅんと甚平

甚平:(小声で)お姉ちゃん、なんかここ場所が違うくないか?
おじゅん:しぃっ!ここで勝栄親分が直々に面接するって言ってたじゃないか。ちゃんとしていないと逆に怪しまれるよ

柄久田組組員:(がらりと障子をあける)ひゃっ、ひゃっ。おまえが新しい壷振りのお姐さんか?(おじゅんに触ろうとする)
おじゅん:やめとくれよ、もう

甚平:(割って入る)うるさいなぁ、早く親分を呼んで来いよ。しびれが切れっちまわぁ
柄久田組組員:なんだぁ?このチビは?
甚平:俺はチビじゃないぞ。有戸ゆうと長屋の瓦版屋、おひろめの甚平さまでぃ

柄久田組組員:ふーん、ジンペイだかトンペイだか知らないが親分は今お取込み中だ。もうちょっと待っていろ。いいな。
(組員、部屋から出て行く)

甚平:(こっそりと)お姉ちゃん、お取込みってなんだい?洗濯物かい?
おじゅん:(甚平の頭をはたく)やだよ、この子は。大人になればわかるさ
甚平:ちぇ

(部屋の外で声がする)
料亭の主人:おーい、越後守様のお帰り〜〜

甚平:えちごのかみ様ってあの江楠様かな?
おじゅん:ま〜さかぁ。そんなお偉いお侍さんがこ〜んな料亭に出入するもんかい
甚平:(障子の隙間から廊下を覗く)

(廊下を頭巾をかぶって「お土産」の風呂敷を抱えた江楠が通る。その後ろをペコペコしながら勝栄親分がついて行く)

甚平:(向き直って)お姉ちゃん、面白いものが見えるぜ。勝栄の野郎がコメツキバッタみたいにこんなしてるぜ(勝栄親分の真似をしてペコペコしながら座敷をぐるぐる回る)

(その時、ふすまがガラリと開いて勝栄親分が入ってくる)

勝栄:待たせたな(甚平を睨みつける)
甚平:わっ!(急いでおじゅんの隣りに座る)


(シーン11=南部の隠れ家)

健:それで、どうしたんだ?
甚平:結局さ、お姉ちゃんがまた壷からサイコロをこぼしちゃって・・不器用なんだよ。まったく!
おじゅん:うるさいわねー、あんたが騒ぐから気が散ったんでしょ!

錠:(舌打ちして)しょうがねぇなぁ。おい、健。どうするんだよー
健:イカサマは現場を押さえないと・・
錠:けっ!

南部:甚平、そんな大事な時に何を騒いでいたのかね
甚平:それがさ、元締め。勝栄の野郎より偉い奴がいるみたいでさ
南部:なに?ホントか

甚平:そうなんだよ。そいつの後ろをこんな風にしてくっついて歩いていたんだぜ
(また、勝栄親分の真似をしてペコペコしながらぐるぐる回る)

健:へー、あの勝栄が?
錠:勝栄より偉い奴なんて誰だろう
南部:うーむ。もしかしたら・・甚平、その偉そうなお侍の名前はわかるか?

甚平:えっとね。・・ナントカノモリ・・だったかな
おじゅん:バッカねぇ。越後守でしょう?

主水:なにっ!ま・・まさか!?
南部:江楠越後守相哉えくすえちごのかみそうさい・・か・・?

(その時、裏口の戸がガタンと鳴る)

健:誰だ!

(健と錠が音もなく裏口へ回ると外へ飛び出す)
(だが、真っ暗な闇の中に誰もいない)

(錠の足元にかんざしが落ちている。拾い上げる錠)
錠:お響だ
健:なにっ!

錠:しまった。あいつ、一人で兄貴の敵を討つつもりだぜ


(シーン12=江楠の屋敷)

江楠が一人、奥座敷で酒を飲んでいる。それを屋根裏からこっそり覗いているお響

江楠:(傍らに置いてある「お土産」の蓋を取ると小判がぎっしり入っている)ん〜、いつ見てもいい物よう(うっとりしている)

お響:(音もなく江楠の後ろ側に飛び降りると小刀を首に突きつける)
越後守相哉、江楠だな?覚悟!

江楠:な、なにやつ!?
お響:佐々木孝三郎の妹、お響さ。兄者の敵!
江楠:く、くそう・・(お膳の下の紐を引く)
お響:あ

(畳が舞い上がったかと思うと江楠がお響を振り払う)

江楠:曲者じゃ、出合え!出合え〜!
お響:しまった

(腕利きの用心棒が現れたかと思うとお響を一刀のもとに切りつける)

お響:あぁ・・(倒れる)


(シーン13=屋敷の外)

健と錠が暗い夜道を思いっきり走っている

健・錠:はぁ、はぁ・・

(江楠の屋敷の前にたどり着く。まだ息が切れている)
健:ここだ
錠:(うなずくと懐から羽根の形を模した手裏剣を出してくわえる)

(しんと静まり返った屋敷のくぐり戸が音もなく開くと筵に包まれた"何か"が打ち捨てられる)

錠:うん?
健:あれは?ま、まさか・・

(二人が駆け寄り筵を開けると、ぐったりとしたお響が入っている)

錠:お響!
健:遅かったか・・いや、まだ息があるぞ
錠:バカヤロウ!なぜ一人で行ったんだ!?(お響を抱き起す)

お響:(うっすら眼を開ける)錠・・(苦しい息の中、途切れ途切れに話す)
三日月神社の三本松、知っているかい?

(健と錠がうなずく)

お響:(途切れ途切れに)真ん中の松の根元に賭場の稼ぎが埋めてあるんだ。
それを仕掛忍者に渡して、兄者と私のうらみを晴らしとくれ・・

錠:わかった。わかったから、死ぬな!死ぬんじゃねぇぞ、お響!

お響:(途切れ途切れに)これで兄者のところへ逝ける。あとは頼んだよ、錠・・
(錠の腕の中で力尽きる)

健:お響は俺たちが仕掛忍者と知っていたようだな
錠:(お響を抱いたままうなずくと鋭い眼を前方へ向ける)

(アップになった錠の鋭い眼と土を掘る音が重なる)

(三本松の根元を掘っている健と錠。ツボが出てくる)
健:これだ


(シーン14=南部の隠れ家)
仕掛忍者全員が集まっている

南部:(一人一人の前に5両ずつ配る)全部で30両あった。一人5両で仕事をしてもらう。
どうした?甚平。いつもの元気がないな

甚平:おいらが「江楠」だなんて言ったから・・お響ねえちゃんが・・
おじゅん:甚平、それは違うわ。
主水:どちらにしたって金を出したモンから依頼されたんだ。(小判を掴み取ると懐へ入れる)仕事をするまでよ。
(主水、去る)

健:(やはり無言で小判をつかむとその一枚を噛んでニヤリとする)本物だ
(健、主水に続いて去る)

おじゅん:(自分の5両を袂へ入れると甚平の分をまとめて手渡す)ほら、いつまでもめそめそしていないで仕事、仕事。
甚平:あぁ(コクリとうなずくとおじゅんと出て行く)

南部:(自分の分け前を懐へしまいながら、ずっと腕組みを決め込んでいる錠に)どうした?錠。行かないのか?
錠:やるに決まっているじゃねぇか!(ふてくされた態度で無造作に小判をつかむと出て行く)

南部:(独り言)錠の反抗的な態度は今に始まったわけではない


(シーン15=仕事)

(仕置きのテーマ曲スタート)
5人が横一線に並んで夜道を歩きだす

甚平:江楠も勝栄もみんなあの料亭にいるぜ
健:そいつは好都合だ
主水:みんな気をつけるんだ。相手は一筋縄ではいかないぞ

(料亭の前につくと健がおじゅんに目で合図をする)

おじゅん:(うなずくと手まりの形をした花火を料亭内へ投げ入れる)はっ!

(料亭内は花火とその誘爆で大騒ぎとなる)

料亭の女たち:(口々に)きゃあ〜!助けて〜!あ~れぇ~!
おじゅん:(女たちを誘導する)こっちよ早く!
甚平:こっちだよ、早く逃げて〜!(女たちを誘導しながら)おねえちゃん。火薬、多すぎたんじゃない?
おじゅん:なに言ってんだい?ちょうどぴったしだよ。おじゅんさまを見くびるんじゃないよ!さ、みんなを安全なところへ案内するんだよ

(騒ぎの中、奥の間では勝栄が「お土産」が入った風呂敷を結びなおして逃げようとしている)

健:(勝栄の後ろに音もなく回り込み、首を締め上げる)勝栄、今日は逃げられないぞ。
勝栄:お、お前は・・?
健:てめぇのような悪党に名乗るようなモンじゃないが・・(右手を大きく開いて力を込める)人の恨みを買って仕事する仕掛忍者賀茶満、念仏の健さ!
(言うが早いか勝栄の胸の骨を外すと心臓を止める)

勝栄:(無言でばったりと倒れる)
健:(音もなく去る)

(一方、火が回った江楠の部屋に錠が現れる)
江楠:(あわてて)く、曲者じゃ〜!出合え〜!

(用心棒がぬっと出ようとするところ、肩を叩かれ振り向く)
主水:おまえさんの相手は俺だ(用心棒を一太刀で切り捨てる)
(その様子をニヤリとして見ていた錠。)

錠:(鋭い眼つきで江楠を睨みつける)壷振りのお響と佐々木孝三郎から恨みを買ってきたんでな。悪く思うなよ。(羽根型の手裏剣を投げると江楠の顔をかすって壁に突き刺さる)
江楠:ひゃぁ〜、か、金ならいくらでもやるから・・た、助けてくれ〜
錠:残念だが、金ならあるんでね(短刀で江楠の喉を突き刺すと、ぐっと奥まで入れてしまう)
江楠:(立ったまま息絶える)
主水・錠(音もなく去る)


(シーン16=おじゅんの茶屋)

酒を飲みながら手の中でサイコロを弄んでいる錠
(健が入ってくる)

健:なんだよ、珍しいな。昼間っから(徳利を錠からを取り上げ自分も飲む)
おじゅん:さっきからずっとこうなんだよ。あ、健も飲むでしょう?いま一本つけるからさ

健:えへへ(錠の隣りに座りなおす。錠だけにそっと囁く)もう忘れちまいな。な?
錠:ふっ(笑顔が戻る)おい、おじゅん!ちょっと振ってみな(壷を振るしぐさをする)
おじゅん:あはぁ?私がぁ?(徳利を持って健と錠の前に座る)

健:ほら(壷を持ってくる)
おじゅん:(二人を見やって)いくわよ〜ぅ!入ります!(見事にさいころが壷から飛び出る)
健・錠:(口々に)ありゃ〜。だめだ〜、こりゃ(ずっこける)

(ずっこけた二人のストップモーション)

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ふるさとは・・

 キョーコが入院している病院から連絡を受けて南部博士は車上の人となり道を急いでいた。

「しらゆき孤児院から連れてきた男の子のことについてお話したいことがあるの」
そうキョーコが言っているそうだ。

なんということだ。
私が何をやっているのかあの子には手に取るようにわかってしまうのだろうか?
孤児院で見出したあの二人のことについてはまだ極秘事項だというのに。

 病院の車寄せで一人ハイヤーから降りた南部博士は上着の襟を正すとまっすぐキョーコの病室へ向かった。

薄いピンク色の生地に濃いピンクの縁どりがついている病衣を着たキョーコがベッドのリクライニングを起こしながら博士を迎えた。

「パパ、約束通り一人で来てくださってありがとう。時間は取らせないわ。」

キョーコは何も映っていないテレビの黒い画面を見つめながら話し始めた。

「パパ。あの小さな男の子の右腕についている小さなアザを消しておいてほしいの。国際科学技術庁の医学ならきれいに消せるわよね。早いほうがいいわ。いま
消しておけば成長したころには傷跡も残らないしね。パパ、あの子は忍者になるべくして生まれてきた子よ。だからきっとパパの計画には欠かせない存在になる
わ」

 博士はポケットチーフでメガネを拭きながらキョーコの話を聞いていた
「確かにアザを消すくらい簡単なことだが、その理由を話してはくれないかね?」
そう尋ねる博士にキョーコは小さくため息をつくと

「故郷は心に抱いて生きていけ・・ということかな」と小さな声で呟いた

 記憶の一部が欠如していると思われるジョージにそれを伝えるべきか迷っていた博士はキョーコに心を読まれた気がしてそれ以上は何も言わずに病室を後にしたのだった。


(おしまい)

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江戸っ子

 南部博士は先ほど別荘に届いた書籍小包を自室でほどいて愕然としていた。
欲しかった学術書は注文通りであったが、その中に一冊だけ『小学生のための日本のことわざ・慣用句』というものが入っていたからだ

博士はそれを左手に取ると右手の人差し指を曲げ第二関節を顎に押し当てて考えた。
どこをどう間違えるとこの本がここに混入するのだろうか?

その時だった。

 身体が回復してきたジョージに先月から日本語を教えているISO職員の萩生田豪はぎゅうだつよしが疲れきった様子で部屋へ入ってくるとこう言った
「南部博士、ジョージ君にはきちんとした日本語を教えたいのですが・・」

「一体どうしたというのかね?」
南部博士のメガネがキラリと光る

「はい、私のあとに続けてちっとも話してくれないのです」
「ふむ」
「で、思わず自分の地元の言葉が出ますと・・」
「上手に真似て話すというわけか・・ね?」
博士の眉が片方上がる

「はい・・」
萩生田は―いつもながらではあるが―博士の鋭い洞察力とその眼光に圧倒された

 気弱いその返事に博士の表情が和らいだ
「いいではないか?萩生田くん。江戸弁だって立派な日本語だ。気風きっぷがよくて・・」
「はぁ・・?」

『それでは日本語教師失格だ!』と言われても仕方ないと思っていた萩生田は多少・・いや大いに気抜けした。

―そうか、あの子はいま両親を亡くし愛情に飢えているはずなのにそれを素直に表現できずに、逆に反抗的な態度をとることによって周囲から注目を浴びようとしているのだな・・

 そう考えた博士は思わず手に持っていた本を萩生田に渡すとこう言った
「萩生田くん、彼には正面からぶつかってもダメだ。教えようとするのではなく学べるようにしてやってくれたまえ。子供が親の言葉を自然に覚えるのと同じだ」

それが日本のことわざとどう関係するのか?
萩生田にはよくわからなかったが南部博士のことだ、きっとなにか深い意味があるのだろう。

「はい、そうします。南部博士」
そう答えた萩生田の目には輝きが戻っていた。

そしてその本を受け取ると、ジョージの自室へと戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら博士は心の中でこう言った。

「頼むぞ、萩生田くん。君とそっくりな江戸弁を話し始めたばかりだったのに急な病気で夭逝ようせいした君の息子くんもきっと天国から応援しているはずだ・・」


(おわり)

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